レポート
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富山県の戦後看護教育を築いた
「牧田きせ」さんってどんな人?

2020.03.26

牧田きせさん(富山県)

レポート

富山県立総合衛生学院は、戦後の富山県において数多くの優秀な看護人材を輩出してきました。 富山県立総合衛生学院の基礎を築いた牧田きせ(1890〜1971)は、今も学院同窓生の誇りであり、尊敬される存在です。
牧田先生とはどんな人だったのか、富山での活躍を語っていただきました。

三谷順子(富山県看護連盟 会長)
稲田まつ江(富山県看護連盟 顧問)
宮本眞弓(元富山県立総合衛生学院 教務課長)
稲村睦子(富山県立総合衛生学院 学院長)
高畑聖子(富山県立総合衛生学院 看護学科長 )

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左から、稲田まつ江さん、三谷順子さん、稲村睦子さん、高畑聖子さん、宮本眞弓さん。
稲村さんと高畑さんには、学院内の資料の案内などでご協力いただいた。

三谷:石田まさひろ参議院議員が富山にいらした時、富山県立総合衛生学院(以下、学院)の基礎を築いた牧田先生についてお話ししたことがありました。石田議員は、戦後、GHQが看護師教育の基礎を作ったとはいえ、戦後の貧しい日本のなかでレベルの高い教育ができたのは、日本人の中に立派な方がいたからだと、また、各地で看護教育の基礎を築かれた方の足跡を、今のうちに記録しておく必要がある、とも言われました。それがきっかけで、牧田先生を『アンフィニ』でとりあげていただくことになりました。今日は、直接牧田先生から指導を受けた、日本看護連盟名誉会員で富山県看護連盟顧問の稲田まつ江さんにもお出いただきました。また、宮本眞弓さんは、学院の教務課長を勤め、牧田先生の足跡を論文としてまとめました。そして、私も、この学院の卒業生の一人です。

宮本:私が学院の教員だった時に、三谷会長が、初めて看護職の学院長として赴任されました。それまでは病院長など医師が務めていました。そのころ私は大学院で勉強したいと思っており、学院長に相談しました。そして、職籍をおきながら大学院に行くのなら、学院の役に立つことを研究してほしいと言われました。

三谷:そんなこと、言いましたっけ(笑)。私が学院長になった時、富山県立中央病院のOB会で、ある先輩から「私は今でもときどき牧田先生に会いに行くのよ」と言われたんです。その先輩は卒業して50年以上も経っていました。「だって、先生の胸像が学院にはあるでしょ。でも、最近の学生さんは、胸像の前を通る時、誰一人会釈しないよね」と言われて、ハッとしました。私も学生たちとあまり変わらないな、と。伝説として牧田先生は偉い人だ、ナイチンゲール記章も受章された、と知っているけれど、生の牧田先生はどういう心で、どういう言葉で学生たちを育てたのか。それを知り、伝えていくということは、この学校にとって大事なことではないのか。そう思っていたところ、当時教務課長だった宮本さんから相談されたので、協力して調べようということになったんです。

宮本:私は、修士論文のテーマとして牧田先生の足跡をまとめることにしました。いろいろな資料を集めましたが、学院の倉庫などからもたくさんの資料が見つかりました。三谷学院長の言葉で、詳しく調べることになったのですが、改めて牧田先生の偉大さに感銘を受けました。
牧田先生は、履歴書には、「きせ」と記されているのですが、資料の中の文章には「起世」を好んで使っておられます。世を起こす「起世」という文字に牧田先生の気概が伝わります。

GHQにも認められた看護師、牧田

宮本:牧田先生は、1890(明治23)年岐阜県に生まれ、岐阜の日赤救護看護婦養成所に入学しました。成績が優秀でしたので、東京の日本赤十字社救護看護婦養成所からの進学要請を受け入学、そして日赤中央病院に勤務します。25歳の時公衆衛生看護を学びたいと渡米し、18年間ロサンゼルスの病院で勤務しました。その間スペイン風邪流行時の不眠不休の看護を讃えられ、ロサンゼルスの医師会から感謝状をいいただいておられます。帰国後、戦争が始まり従軍看護婦長として、中国をはじめ様々なところに赴き、看護を受けた方々から「ナイチンゲール再来」と言われています。
終戦後は岐阜に戻り、岐阜県の看護協会支部長、看護学校の講師、旧制度の看護婦の再教育活動などをなさっていました。再教育をするにしても、当時はテキストなどありません。GHQ看護課長ミス・オルトより米軍ナースの再教育用参考書をもらい受け、全部翻訳してガリ版で印刷、配布し第一回の国家試験に備えました。
ある時、GHQのミス・ファーブル看護大尉が岐阜県を視察中、県庁で、病院や設備に関して散々苦情を並べました。居合わせた牧田先生は、英語で「施設の悪いのは戦争のためです。看護婦のレベルも戦前は世界の水準をはるかに超えていたのです。近い将来再びそうなるでしょう」と応酬したそうです。看護に情熱を傾け、看護でがんばって、女性として生きるんだ、と。女性だということをすごく意識していらっしゃいました。

三谷:牧田先生と富山県の関わりはどうだったのでしょう?

宮本:不二越病院には戦前から2年制の看護学校がありましたが、GHQのラスキー軍医からの「病院に高等看護学院を併設すれば将来病院の格式も上がる」との指導もあり、当時の多賀一郎病院長は高卒3年制の病院付属甲種看護婦養成所をつくることに決めました。国から認められるには、施設や教員を揃えなければなりません。ところが、戦争のため、富山県には教務主任の適格者がいませんでした。ミス・ファーブル看護大尉は、岐阜県に牧田きせという人がいて、彼女なら適格で、国の審査に通るだろうとアドバイスし、牧田先生を推薦しました。
その頃、国は各県に1つずつ県立の病院を作る方針を打ち出していました。富山県では昭和26年、不二越病院という民間病院を買い受け、県立病院にすることになり、学院も病院付属となりました。

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看護教育の基礎を築くために岐阜から富山へ

宮本:不二越病院長から再三再四懇願され、昭和23年に牧田先生は、のちに厚生省看護課長に就任された都築公さん、国立がんセンタ―総婦長に就任された愛知志づさんを伴って、不二越病院附属看護看護婦養成所の講師として富山に通われました。その後、第一回の国の審査を受けて合格、高等看護学院になり、牧田先生は教務主任となりました。
当時、全国には看護学校が450校ほどあり、そのうち約100校が審査を受け、90校が合格しました。富山県で合格したのは不二越だけでした。また、合格した学校の大半は日赤や国公立で、民間の学校も有名なところばかりで、全く無名の私立の学校は不二越だけでした。牧田先生をはじめ、当時の職員のみなさんは、審査前の1週間はほとんど徹夜で準備されたそうです。そういう苦労を経ての合格だったので、とても嬉しかったと牧田先生も述べられています。
合格記念としてカナダ看護婦協会から、解剖の掛図10本が各学校に贈られ、学院に今も残っております。

三谷:学院が県立に移管した昭和26年の県報に当時の教育目的を見つけた時は、宮本さんと、これぞ牧田先生と感動しました。

宮本:ページをめくり見つけたとき、手が震えました。「この学院は、甲種看護婦の養成にあたり、人類愛を基調とする愛の精神と崇高な責任感を有する人格を育成し、最高の看護知識と技術を教授することを目的とする」です。

看護管理者としても大きな足跡を残す

宮本:1965(昭和40)年に、牧田 先生がナイチンゲール記章を受章されたとき、岐阜日日新聞が「生きているナイチンゲール」というタイトルで、15回の連載で特集しています。残念ながら幾種類かある富山県の女性史には、牧田先生の名前は出ていません。1967(昭和42)年、雪永政枝さんは、雑誌『看護技術』の連載「看護史の人びと」の中に牧田先生を取り上げておられます。

稲村:学院では現在、3年生の看護歴史の講義の中で牧田先生について教えており、学生も心を動かされております。

都築公先生から哺乳法の講義を受ける一期生

都築公先生から哺乳法の講義を受ける一期生

ベッドメイキングの実習指導を受ける一期生。右端が牧田先生。

ベッドメイキングの実習指導を受ける一期生。右端が牧田先生。

一期生の授業の一コマ

一期生の授業の一コマ

患者の前では看護師も医師も対等

宮本:病院では、まず看護婦や学生が掃除していたのを、それはあなたたちがすることではないと言い、もっと患者さんの側にいることを優先するように改革されました。病院の幹部会議では、看護婦は看護のことを話さなくてはと、言うべきことを言われるので、一部の医師からは煙たがられていたようです。また、富山県は保守的な県民性で、県外から来た人をなかなか受け入れないところがあります。稲田顧問も県外のご出身ですが。県外から来て苦労された医師もいました。牧田先生も県外人ですが、凛としていて、そんな医師を気遣っていたそうです。牧田先生が岐阜の高山に戻られて病気をされた時、お見舞いに行った医師もいました。

三谷:看護師と医師、どちらが上、下ということではなくて、患者さんのためにどう動けばいいのか、きちんと同じテーブルで議論できるような、そういう風土を牧田先生に作っていただいた。そのことを私たちは自覚しないといけないと思います。

稲田:医師と看護師の上下関係がまだ強かった時に、先生は看護婦と医者は絶対対等だとずっと言い続けていました。医師から悪口を言われても意に介さない。また、年齢の割にものすごく姿勢がよくて、堂々としていました。誇りでしたね。

一人前の看護師とは?

稲田:先ほど、お話に出たように、私は長野県の出身です。私が看護学校に入学したころ、富山県は看護婦になろうという人が少なく、看護学生を募集するにも苦労していました。牧田先生は、学生募集のために県内外の学校を訪問して歩いていました。東京からの帰りに長野赤十字に寄られて、苦境を訴えたところ、応援しようということになったようです。長野県では看護学校の応募者がけっこう多かったのです。それで、長野県から何人か集団就職のように富山県に行きました。私もその一人です。長野赤十字病院の看護学校を受けましたら、20人採るところを30人採用して、10人が富山へ来ました。

三谷:希望して富山へ来られたのですか?

稲田:いえ、いえ、強制的です。私は、富山県がどこにあるのかも知りませんでした(笑)。そんな状況で、牧田先生に迎えに来てもらって、富山入りしました。全寮制で1学年20人だけ。知らない土地に来て、みんなホームシックになっている。先生は医師の官舎に住んでいましたが、学生たちを呼び寄せて鍋をしたり、いろいろ慰めてくださいました。先生のお部屋に何回も行きました。全寮制だからなおさらだと思うのですが、勉強のことばかりではなく、生活全般にわたって、みんなを大事にしてくださいました。先生のおかげで、とても家庭的な中で私は育ちました。
また、決断力がある先生でした。農協高岡病院の火災(昭和29年)で付属看護学校が焼失したとき、即座に学生を引き受けられました。講義も寮生活も、学生が20名増えたのです。半年間大変でした。本当に(笑)。
先生は、自分の弱いところを全く見せない方でした。亡くなる直前にお見舞いに行った時も、あそこに美味しい料理屋があるからご飯を食べていきなさいと、そういう心遣いをされる先生でした。牧田先生にはいくつも教科を教わりましたが、とくに看護の歴史と個人衛生にものすごく力を入れていました。人を看護するには、まず個人衛生がしっかりしていなければならない、と。それがAn apple a day keeps the doctor away。指を振りながら、リンゴを1日1個食べていれば医者いらず、と毎日のようにおっしゃいました。

宮本:これは牧田先生の口癖ですね。もう一つの口癖が、とにかく女性であれば、看護婦であればちゃんと家庭を持って子育てをして、それで初めて一人前だから、そのようになりなさい、と。だから、中央病院は他の病院よりも、はるかに既婚率は高いんです。また、看護倫理の大切さ、科学的看護、自己研鑽をすることを常におっしゃっていました。

三谷:最近知ったのですが、雑誌・看護1957年1月号の座談会『看護婦と結婚』で、既婚者の多い富山県内の看護婦8名が牧田先生を中心に話し合っています。具体的な事例とともに自分の意見を述べていらっしゃいます。

稲田:家庭を持ちなさいって、いつも言っていました。先生は独身でありながら、そういうところに理解があったと言いますか、何人もの結婚の仲人をされています。私も実は、その1人なんです。

三谷:話は尽きませんが、今日はありがとうございました。もっと牧田先生の足跡を多くの人に伝えていきたいと改めて思いました。

宮本:学院の玄関にある牧田先生の胸像は、昭和46年、病院付属から総合衛生学院へと改称したとき、同窓会から寄贈されたものです。また、学院創立50周年記念のときにも、やっぱり牧田先生の肖像画を作ろうということになりました。2021年3月で学院の看護学科が閉科になります。今年は、学院ができて70年、牧田先生の生誕130年、そしてナイチンゲールの生誕200年です。創立70年で看護学科が閉科するので、なおのこと、牧田先生の足跡をもう少し形にしていかないといけないと思っています。

一期生の寮生活の一コマ

一期生の寮生活の一コマ

同窓生から寄贈された牧田先生の肖像画

同窓生から寄贈された牧田先生の肖像画

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