インタビュー
placeholder image

石田まさひろ議員が聞く!被災地の生活を守るため看護師はどう関わるか

2024.07.17

1995年の阪神・淡路大震災に衝撃を受け、それ以来、災害看護に取り組み続けている宮地富士子さん。能登半島地震でも、災害支援ナースとして、真っ先に被災地に入り、避難所の被災者の生活を守る看護を実践しました。
ここでは、石田まさひろ議員が「被災地の生活を守るため看護師がどう関わるか」を、宮地さんに問いかけます。

阪神・淡路大震災が災害看護をめざすきっかけに

石田:宮地さんは災害看護に精通されており、DMATのナースや災害支援ナースとして活動されていますね。能登半島地震での支援のお話をうかがう前に、なぜ災害看護に取り組もうと思われたのかを聞かせてください。

宮地:阪神・淡路大震災のあったとき、私は救急救命センターに勤務していました。ちょうど6年目ぐらいです。
「こんなことが日本に起きるんだ」と、すごく恐ろしいと思いました。現地に支援に行きたいと思ったのですが、そのとき病院は男性看護師のみを派遣すると決定したんです。とても悔しくて、「災害看護を学んでいれば行けたのでは」と考え、学べるところを探しました。

石田:そのころ災害看護を学べるところはなかったでしょう?

宮地:そうなんです。今のように基礎教育はありませんでしたし、本当に何もないという感じでした。必死でありとあらゆるところに「災害の勉強会をやっていませんか?」と電話をしたら、医師が行っている勉強会がなんとかあって、1年に2回くらい参加しました。

そんなとき、当時の師長さんが「災害支援グッズを扱っている会社があるから呼んであげようか」と言ってくれました。お話を聞くと、NPOが行っている災害支援の研修に関わっていて、ただ、1カ月の研修期間だったんです。でも、上司が行かせてくれました。

研修後に病院で勉強会を企画しましたが、なかなか受け入れてくれない状況の中、DMATの活動が始まり、私も参加しました。

石田:DMATはもともと海外支援を想定したものでしたよね。それを、宮地さんは国内支援に応用したわけでしょう。そのモチベーションはどこから来ていたのですか?

宮地:そうですね。「いつか困らないために」という思いだけでしょうか。一緒に災害支援を学んでいた仲間が自分を含めて3人いたのですが、「このあと誰かが辞めることがあって、1人は絶対にこの病院に残って災害看護をやろうね」って誓い合っていました。

そして、3・11が起きたんです。実は私の実家は岩手県宮古市で被災しました。「こんなことがあるんだ」という気持ちでした。

当院では病院DMATチームを福島へ派遣することが決定し、私は病院DMATチームの一員として災害支援に参加しました。

東日本大震災後に災害支援に関する関心度が増し、力を入れましょうということになりました。そこで「後輩を育成してほしい」と、東京都の災害支援ナース研修の講師のお話をいただきました。

石田 まさひろ 参議院議員

1990年東京大学医学部保健学科卒業後、聖路加国際病院(内科)・東京武蔵野病院(精神科)勤務。
その後、日本看護協会で政策企画室長として看護関連政策の立案・調整に従事。
日本看護連盟に移り、38歳で幹事長。
2013年比例区(全国)にて参議院議員初当選し、現在2期目

災害支援ナースの第1班として入った能登半島の避難所

石田:それでは、能登半島地震での支援のお話をうかがいます。今回はDMATではなく、災害支援ナースとして入られたのですね?

宮地:はい、東京都からの災害支援ナースの第1陣です。1月12日に金沢駅に集合後、6時間30分かけて17時に珠洲市の正院小学校に着きました。

対策本部は被災者でもある市役所職員や石川県看護協会から派遣された看護師などで構成されていました。

12日の避難者数は220人で、高齢者が多い中、要介助者は少なかったのですが、到着時にはコロナ陽性者が複数名発生していました。
感染拡大が懸念される状況だったので、翌13日から、1日2回の健康チェックを実施しました。

14日から被災者の2次避難が開始されて、計61人が2次避難所へ避難しました。ボランティアや防災士と協力して、パーテーションと段ボールベッドを体育館や各部屋に設置し、片付け・清掃を行い、まさに被災者の生活を守っていたと思います。

最終日の15日は、発災から2週間目で慢性疾患の増悪が懸念される時期だったので、被災者の基礎疾患や残薬の確認を行い、熊本県の保健師や避難所統括のNPO、そして次の災害支援ナースに情報を引き継ぎました。プリンターやコピー機が使用できなかったので、被災者情報は手書きで、部屋ごとのマップを作成しました。

石田:現地のナースに話を聞くと、どうも東日本大震災のときと現地の状況が異なっているように感じたのですが、実際はどうでしたか?

宮地:はい、災害にも外的要因でさまざまな様相があるのだと思いました。東日本のときも発災後10日で現地に入ったのですが、避難所に支援物資が豊富だったんです。

また、サポートも市役所に行くと、こういう制度があるなどの情報が入ります。被災はしているけれど、なにか光があるというか、温かくて、やがてどこかに向かっていくのだろうな、という感じでした。

しかし、珠洲市は食料や支援物資はあったのですが、行政の支援が見えにくいように感じました。だから被災者の皆さんが一丸となって、これらをやっていこうというような感じでしょうか。地域による何かの差なのかもしれません。

仕事もナースの仕事に限らず、生活を支えることが中心で、睡眠をとる時間も本当に少ししかありませんでした。ですから、今まで支援に行った中でも、一番難しかったように思います。

宮地 富士子 東邦大学医療センター大森病院 副看護部長/救急・災害統括部副部長

1988年国立横須賀病院付属看護専門学校卒業後、総合新川橋病院(外科)入職。
1991年東邦大学医療センター大森病院(救命救急センター)勤務
2007年~2017年東京DMAT隊員
2011年救急・災害統括部副部長
2014年東京都看護協会災害対策委員会(災害支援ナース育成)
2023年副看護部長

災害支援ナースとして避難所での支援で心がけたこと

石田:それでは、避難所での災害支援ナースの活動について、もう少し詳しく聞かせてください。

宮地:珠洲市の皆さんは自分たちで自炊をしていました。被災2日後から、皆さんの中で炊事当番もできていて、3食召し上がっていらっしゃいました。朝起きたら一緒に掃除をして、換気をして、運動をする、その間に健康チェックをしていきました。

災害支援ナースが2チームに分かれて、100人ずつ担当しました。バイタルサインを測定する必要がある人は測定し、感染兆候がないか、家族とちゃんと話をしているか、孤立している被災者はいないかなどを確認していました。

石田:被災地をまわっていると「災害支援ナースがとてもよかった」とたくさん聞きます。では、どこがいいのかと考えると、いわゆる健康管理や感染症対策というより、「話し相手になってくれた」とか「声をかけてくれたから安心した」ということ、その上で健康のこともみてくれるからだと思うんですね。

医療的・看護的という感覚よりも、生活支援、生活を共にして、声をかけてくれて、何かのときは相談にのってくれる存在、そういった印象が強いですね。

宮地:私は災害支援ナースの第1班でしたので、最初に思ったことは「この中に溶け込みたい」でした。

拒否されたら、本当に何もできなくなってしまうので、とても〝言葉〟を選びましたし、それは被災者だけでなく、災害対策本部の方たちにも同じようにしました。

自分たちの態度も謙虚であれ、という意識は常に持っていて、「ここの場に看護師として入ってきてもいい」と思われるための最初の一班だと思っていましたから。

石田:そういう姿勢で入るので、「外から来て、自分のことを助けてくれる人」という感じでは被災者は災害支援ナースのことを見ていないように思います。

DMATとの違い日常の延長にある災害看護

石田:今の宮地さんのお話からは、DMATと災害支援ナースは違うように思います。この違いをもう少しクリアにできますか?

宮地:はい、私はDMATの隊員でもあったので、とてもそう思います。

DMATは災害発生直後に派遣され、命を助けるために、医療を展開することが第一の目的です。ですから、被災者と関わるのは短い期間です。それに対して災害支援ナースは長い期間で住民を支えることができます。日常の延長にあるのが災害看護だと思います。

もちろん、DMATは出番が少ないとはいえ、大きな意味があります。阪神・淡路の後に「助けられる命を助けたい」を実現するためにできたのがDMATですから、その目的のためには欠かせない存在です。

私は看護職の倫理綱領の16「看護職は、様々な災害支援の担い手と協働し、災害によって影響を受けたすべての人々の生命、健康、生活をまもることに最善を尽くす」という言葉がとても好きです。
そのために必要なのは本当に〝一部〟になること、地域の保健師さんや看護師さんがまちの中に住んでいるように災害支援ナースもそうなることが目指すところだと思っていました。

だから、能登半島地震での支援でも、一緒に行った4人で必死でした。絶対に「ノー」と言われないように頼まれたことは看護師の仕事ではなくても全てやりました。

石田:被災者の方が2次避難所に移るとき、引っ越しの手伝いなどもありましたか?

宮地:はい、ありました。でも、そうやって避難所の中で一体化することで被災者の皆さんも私たちを受け入れてくれるんですね。

私たちが被災地に入ったのは発災後1週間くらいですから、まだ創傷処置が残っている方もいらっしゃいました。「消毒してちょうだい」って、被災者の方から来てくれるようになったり、金沢市の1・5次避難所に移ることになった方が「もう、お別れだね」と言ってくれたりしたときには、ああ、災害支援ナースを認識してくれているんだな、と思いました。

石田:それはうれしいですね。

「災害看護は日常業務延長線上にある」と話す宮地さんの言葉に深くうなずく石田議員

ぜひ受講してほしい災害支援ナースの研修

石田:災害支援ナースの派遣はこれまで日本看護協会の活動として進められ、法的根拠がないボランティア活動と位置づけられていたのですが、この4月からDMAT等と同様に「災害・感染症医療業務従事者」に位置づけられました。

これによって、災害救助法・改正感染症法の規定に基づき、派遣に係る費用を公的に都道府県や国庫から負担し、災害支援ナースの業務を「医療機関における業務」として安定的かつ安心して実施できるようになりました。

研修自体はこれまでのように日本看護協会・都道府県看護協会に委託します。ただ、自然災害に加えて、新型コロナウイルス感染症の関係で、感染症対策の比重が増えたので、今までの災害支援ナースの研修よ り、少し難しくなったのかな、と思うところもあります。これについては、どう思われますか?

宮地:この研修は厚生労働省からの委託事業で、今まで私たちが行ってきた研修とはかなり違います。コロナに限らず、未知の感染症への対策が研修内容に含まれて、何が起こっても対策できることを視野に入れた研修なのだと思います。

石田:確かに新型コロナウイルス感染症のときは病院にナースが派遣されたので、避難所に派遣するのとは違いますね。

宮地:そうですね。補助循環を視野に入れるような重症感染症対応での支援であれば、私は救急救命センターのナースを派遣するのが望ましいと考えます。でも、避難所を考えると、より日常生活を視野に入れた健康管理ですので、一般病棟や慢性期病棟のナースの派遣が望ましいでしょう。

急性期は本当に短いので、重症感染症の対策は全国の救命ナースが協力して対応できるのではないでしょうか。

石田:政策から考えると、個々の施設独自の看護ではなくて、もっと「応用の利く看護」ができるようになることが必要だと思うのです。そして、そのような看護ができれば、災害の場のように制約された状況下であっても普段の看護ができるはずです。

そのためには、病院の仕組みを変えて、標準化というか、どこに行っても働けるような仕事の仕方ができる、そういう仕組みづくりを政策面から後押ししていくことが必要ではないかなと考えています。

宮地:制約された状況という面では、まさに災害の現場がそうですね。
私が受けた以前の研修では、血圧計も体温計も何もないところで患者の状態を観察するという練習がありました。今の災害支援ナースの研修にそういう内容はありませんが、何のためにナースになったのかという点で、人の生命に関わる、人の健康に関わる、そして人の生活に関わることなのだと思います。

それは、どの職場にいてもナースならできることですから、その準備のために、ぜひ災害支援ナースの研修を受講していただき、登録していただければと思います。

石田:そうですね。人の生活を守るという面ではとてもいい研修だと思います。ぜひ受講しましょう。

(2024年4月9日収録)

(掲載:機関誌N∞[アンフィニ]2024 JUL-SEP)

日本看護連盟のコミュニティサイト アンフィニ
日本看護連盟のコミュニティサイト アンフィニ
日本看護連盟

 © 2020 日本看護連盟 アンフィニ